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ミレー物語

 
社運をかけたWEBシステムの開発ではありましたが、困難に次ぐ困難の連続となりました。何せ、社員の採用から行わなくてはならなかったからです。
 

社員の採用がひと段落しても、そのあとも次から次へと困難は続き、ある時はシステムを依頼していた会社が、ある日突然、行方をくらまし連絡が取れなくなるというドタバタもありました。
そんな困難を幾度となく繰り返しながらも、開発は進められていきました。

 

今では、プログラマー以外は、社長をはじめとする自社スタッフだけで開発を行える独自の体制が出来上がりました。社長の早川が設計と操作性(使い勝手のよさ)を担当し、SE(システムエンジニア)、コーダー、デザイナーなど、システム開発に必要な役割はスタッフ各人がそれぞれ勉強をしながら、素人集団が少しずつ開発チーム?らしい動きへと変貌を遂げていきました。
プログラマーの方も千葉県在住なので、ミレーのシステムは野菜と同様、千葉県産(笑)であるといえるでしょう。

 

新システムイラスト

 
お客さまにとって自由で柔軟な使いやすいショッピングのあり方を考えます。
 

もともとが素人集団なので、システムのつくりは不格好なのですが、このような開発体制になってからは、現場から上がってくる細かなことにも素早く対応ができるようになったといい、自社開発の利点が表れはじめてきました。

 

紆余曲折を経て、途中ドタバタもありましたが、東日本大震災から4年目を迎える2015年3月11日から段階的に念願のシステムを搭載したWEBサイトのリリースを開始してきました。動作の確認を検証しながらの少しずつの公開ではありますが、だんだんと皆様にもお披露目できるようになりました。
お客さまに、もう一度振り向いてもらえるようにと、社運をかけたこれまでの集大成ともいえるものができたといいます。

 

長く深い谷を彷徨っておりましたが、ようやく新たなスタートラインに立てたような気が。気が付くと、早川が創業してから20年。規模を大きく縮小しながらの再出発となりましたが、新たな節目を迎えるのにぴったりの記念すべきリニューアルとなりました。

 

手を取り合って

 
 
これまでに、支払った犠牲は数知れず。しかし、起きた事実は全て夢を実現させるための試練としてとらえ、前向きに取り組んでいったのだそうです。早川が一人ではじめたこの事業は、小さいながらもちょっとした組織に。創業の志と理念は、全てのスタッフに受け継がれています。

 

有機野菜・無農薬野菜のある食卓が、お客さまの健やかな暮らしとご家族のしあわせのためにつながると信じ、これからも私たちは姿勢を正して歩み続けてまいります。

 

また、安心・安全への取り組みとして、これまで公的機関(千葉県薬剤師会検査センター)での放射能検査をずっとし続けております。これまでの検査結果を取りまとめますと、原子力事故後にはじめて地元多古町産ほうれん草が検出されてから、この4年間全ての品目において放射能の検出はされておりません。
以上のことから、2015年ミレーは取り扱う農産物への安心・安全をここに宣言し、営業活動の再開をさせていただけましたらと思います。
検査結果も大事ですが、それ以上に誠実である姿勢を重んじ、お客さまとの信頼関係を大切にいたします。

 

これからも新たなミレーをどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

ありがとうございます。

 

明日があるさ

 
 
2011年3月11日(金)、日本中を震撼させた東日本大震災が起こりました。
 

ミレーのある千葉県香取郡多古町もかつてない激しい揺れに襲われ、千葉県の沿岸部には、津波も到達し大きな被害をもたらしました。会社の物的被害は、最小に抑えられはしましたが、スタッフの中には、自宅が半壊したもの、身内が亡くなられたものもおりました。

 

2週間後の25日(金)には、原子力事故による影響で、多古町のほうれん草からも基準値を超える放射性物質(ヨウ素)が検出されました。

 

この未曾有の出来事に戸惑いを感じながらも、まずはこの事実を一刻も早くお客さまにお伝えすることが先決と、社長早川の指示のもと、情報の開示を徹底して行ってきました。社内では、風評被害と業績悪化を心配するあまり、賛否両論いろいろな議論がなされたといいます。

 

早川は、自社にとって不都合だと思えることでも、勇気をもって正直に公表していくのが、本当の「安心」、「安全」ではないか?と考えて、翌日26日(土)には、一部の社員も出社して、その旨を記した約5,000通のはがきをお客さまに向け発送しました。

 
放射能対応はがき1放射能対応はがき2
 
 
 
難しい決断でしたが、このような対応ができたことを誇りに思っています。
 
それが原因で、お客さまがご利用を控えることがあったとしても、致し方ないこと。「安心」、「安全」に一定の自信を持てるその時が来るまでは、じっと我慢。まずは、お客さまの「安心」、「安全」が最優先という対応を決断したといいます。
その日以来、「安心」、「安全」を担保できるようになるまではと、広告を打つなどの積極的な販売を慎しみました。

 

しかし、そのような姿勢を貫いてみたものの厳しい現実が待っておりました。売上は、ごく短期間で1/3にまで減少。1日で400人のお客さまが定期購入利用の中止をした日もありました。

 

さらに、その結果に悲観した社員の相次ぐ退職。最終的には、社員の3/4が入れ替わるという事態にもなりました。
不幸は、まだまだ続きます。通販事業と並行して事業の柱に据えるべく、立ち上げに奔走していた店舗事業も、オープン日直前にそのような事故が起こり、開店初日から営業不振、すぐ閉店に追い込まれることとなりました。

 

大打撃イラスト

 
あゆみを進めるための試練だったのだと、今は考えています。
 
これまで、幾多の困難を乗り越えてきた社長の早川ではありましたが、二重三重と続くひどい仕打ちに、この時ばかりは、さすがに心が折れそうになり、悩み苦しんだといいます。

 

それでも、前を向いて一歩ずつ歩み、その動きを止めるということはありませんでした。そのやるせない思いの中で、「お客さまにとってよいサービスとは何か?」、「もう一度、お客さまに振り向いてもらえるようにするために、私たちは何をすべきか?」を考え、起死回生につなげる最後の砦として、WEBシステムの開発にかすかな希望を見出し、水面下で開発の着手を決断したのでした。

 

こうして心機一転、爪に火を灯すような状況を続けながらも、社運をかけたWEBシステム開発プロジェクトが、スタートすることになります。

 

前を向いて

 
ピンチは、チャンス!となれるかどうか?新たな挑戦がはじまります。
 
 
有機野菜・無農薬野菜の流通事業を“通販事業(イーコマース事業)”と“店舗事業”の2本の柱で展開することを決め、店舗事業の立ち上げにまい進。
 

出店1年前より、出店予定地域に特化した通販事業をテストマーケティングとして開始。8,000世帯あるうちの300世帯が定期購入するという好結果をもと、成功を予感!?

 

テスト販売期間中には、出店地域の商店会会長より、朝市開催の打診を受け、立ち上げと運営に奔走。より地域に密着のできる関係を構築。

 

通販事業も直前の決算において、売上・利益ともに過去最高を記録。店舗出店のための資金調達、銀行融資も決定。また、千葉県産業振興センターの助成金、農林水産省の6次産業化事業の認定も受け、準備も万端。

 

店舗コンセプトも“ヨーロッパの朝市風”と決め、設計・施工会社と内装デザイン、オープン時期を協議。店舗オープン日を2011年3月26日土曜日(大安)と決める。

 

夢の“実店舗事業”は、ここまで計画通り、滞りなく順調に進んでいきました。

 

直売所

 
農産物直売所の外観イメージ図です。
 

直売所(中)

 
農産物直売所店舗内のイメージ図です。
 
楽天市場に出店をしたものの、WEBシステムやデザイン、写真撮影、メルマガ、注文の処理等々・・・。
今までに経験したことのない難しい仕事に???
 

出店したのもつかの間、途方に暮れること数え切れず・・・。それでも、なんとか少しずつイーコマースへの理解を深めていき、だんだんと軌道にのせていったのだそうです。

 

2年後の2004年には、全国イーコマース協議会が主催するベストECショップ大賞において、大賞を受賞。
4年後の2006年には、自社ドメインサイトを開設。買い物かごシステムの開発から着手したWEBサイトは、当時ちょっと話題になり、WEB年鑑2007(日経BP社)への掲載も実現。また、経済産業省が認定するIT経営百選でも優秀賞を頂くことができました。

 

EC賞状

 
この賞の受賞は、とても大きな励みになりました。
 
有限会社から株式会社への組織変更もその時に行い、イーコマースでの礎を着実に築いていきました。
山あり谷あり、大変ではありましたが、その時には、売上・利益ともに安定して稼ぎ出していけるようになっていたのでした。

 

社長早川の頭の中には、次の展開として、夢の“実店舗事業”の構想を考えられるまでになり、実現に向けて着々と事業計画は進行していったのでした。

 

がっ、しかし・・・。

 

日経BPWEB年鑑

 
WEB制作会社の作品が中心の中、自社制作のミレーが選ばれました。
 

 

7年間の下積み時代を経て、ようやく通信販売で活路を見出すも、いい時代はそう長くは続かず、成長に陰りが見え始めます。

その時の様子を社長の早川に伺うと、一人で事業のほとんどを行うことにより、低コスト経営を徹底。その節約分で多額の広告費を捻出して、新規顧客の獲得につなげてきたのだとか。

事業を“攻め”と“守り”この2つで考えると、「攻めることしかできていなかった」と反省ぎみに。
ようやく見つけた解決への糸口は、この“攻めること”によりもたらされたものでありますが、もっと大切なことを気付かせてくれるきっかけにもなりました。

昔の出荷場

創業当時の倉庫は「トイレなし」、「電気なし」、「水道なし」で、月1万円でした。
今のミレーはこの時代があったからこそです。
そこから、攻め一辺倒であった経営を改め、お客さまのご満足を意識する経営に転換を図っていったそうです。
その時から、一人での経営は終了。はじめて社員の雇用を行い、お客さま満足のための組織体制づくりが始まりました。

けれども、今まで広告費として充てていた資金は、社員の人件費や事務所の賃料に充当すると、からっぽに。通信販売の生命線である広告費が全く捻出できなくなってしまうという事態に陥りました。

ちょうどその時、月額5万円(その当時)で全国に宣伝ができるインターネット通販“楽天市場”の情報を聞きつけた早川は、藁をもつかむ思いで迷わず出店の申し込みをしたんだそうです。

こうして、現在のスタイルと同じEC(イーコマース)事業に参入していくこととなりました。

楽天EC

EC事業に参入。手探りの中、くらいつくのに必死でした。
物流は、自身では行わず、クロネコさん(ヤマト運輸)に依頼。販売活動に専念するため、小売業(通信販売)に衣替え。
今のスタイルにだんだんと近づくようになります。

卸売事業は、完全撤退としたので、売上は“0”からの再スタート。トラックのローンも気になります。自分で作り、印刷したチラシは、撒けども撒けども一向に成果に結びつかず・・・。通信販売で反響を上げることの厳しさ、難しさを痛感。

あまりの成果の不甲斐なさに、個人宅への訪問営業を断行。お客さま直接の意見を伺うことを始める。夕方5時~7時の間、実家近くの大規模マンション群を1日1棟ずつ回るということを自身に課し、アンケートへの協力を求めたのだそうです。
本人曰く、恥ずかしくて一番やりたくはなかったことだそうですが、それがなんと功を奏するきっかけに。

粗品アンケート策

お試しセットを作り、団地を一軒ずつ訪ねて回りました。
アンケートにお答え下さりましたお客さまへのお礼として用意した、有機野菜のサンプル(ちょっとどっさりめ)が評判となり、定期購入への申し込みにつながっていったのだそうです。
緩やかではありますが、そこからだんだんと成果を上げていくことになっていきます。

その後は、大手通信販売会社が発送する商品の中にチラシを入れさせてもらったり、新聞紙面(朝日、読売、毎日、産経、東京など・・・)に広告を打ったりもして、より通信販売会社らしい売上が立つようにもなり、少ないながら利益を計上できるようにもなっていきました。

個人経営だった会社も、いつの間にか、合資会社、有限会社へと法人化もされていきました。
けれども、一人で行う事業としては、もう限界に差し掛かりつつあり、事業の体制を見直さなければならなくなっていました。

新聞広告

新聞広告(全5段)。
この仕事をはじめるには、まず野菜を運ぶトラックをと思い、銀行からの融資にチャレンジ!事業計画を熱く語るも、「売上と利益を上げてからまた来て下さい」とそっけなく玉砕。

学生ながらも、ささやかな実績をつくり再挑戦。半年後にしてようやく300万円を借り、念願のトラックを購入。
免許を取って初めてのマイカーは、“三菱キャンター2tロング冷凍冷蔵車(中古)”となりました(笑)。

その後、多古町で野菜を積み、東京都内各地のお店にお届けをする卸売事業というスタイルで、有機野菜・無農薬野菜の流通をスタートさせていくことになります。

しかし、「昼夜逆転の生活」や「納品先が点在する非効率な配送ルート」等々・・・、自身で配達をすればするほど、納品先を開拓するための営業に時間が割けなくなるという悪循環に陥り、早くも頭打ちに。

トラックの運転手なみの距離と時間を走るも、稼ぎはまるで下積み中のお笑い芸人さんのよう、だったとのこと。
この事業の成否は、物流で決まるとの思いから、卸売事業の撤退を決意したのでした。

昔の社長の一日

一人で仕入れ、箱詰め、お届けをするという業務をし、倉庫で寝泊まりをする日々でした。
金なし、経験なし、つてなし・・・と、ないない尽くしの中、できることといえば事業計画書を作ること。
無我夢中で作成したビジネスプランは、ニュービジネス協議会(故 樋口廣太郎会長)の主催するコンテストにて、なんと学生部門の奨励賞を頂くことに。

ニュービジネス賞状

今も社長室に掲示してあります。常に初心を忘れません。
余談ではありますが、その時の審査員は、あのTSUTAYAの増田社長。本人曰くとても緊張をしたそうです。
事業活動駆け出し中の不安に苛まれる中、とても勇気づけられたとのこと。その時に作成した事業計画は、今日に至るまで変わることなく、現在も事業に受け継がれています。

トロフィーイラスト

受賞したことで、強い決意を抱きました。
 
事業のたねを探している活動中に、有機野菜の農家さんとの出会いが。有機栽培をするその農家さんの野菜の美味しさに感動!また、お客さまを思うその意識の高さや考え方に感銘を受けたんだとか。有機野菜の流通事業で起業することを決意。
はじめは、個人経営からのスタートでした。
 
起業時写真

起業したての頃の早川社長(中央)。若いです。
Iラブ有機

農家さんとの出会いが青年の人生を変えました。
 
 

 

社長の早川が、創業したてのころから現在に至るまでの“山あり谷あり”を簡単な物語風にまとめてみました。
よかった時よりも、苦しかった時のほうが多い、これまでの半生ではありますが、長年にわたりご愛顧くださるお客さまに支えられ、今日まで何とか耐え忍ぶことができました。
ミレー物語は、失敗ばかりのドタバタとお客さまに支え続けられた感謝の歴史でございます。

当時、まだ大学生だった社長の早川は、会社を立ち上げることを夢見て、日々アルバイトに精を出していたそうです。
報酬のよい“ガテン系”が多かったとか。
起業時には、160万円を学生時代に貯めていたというのですから、なかなかやりますね。

バイト時代

体力には自信がありました!